バレエ、ピアノ、合唱団。幼い頃から芸術に触れて育ちました。
中学生の頃、文化交流使節団としてカナダとアメリカでホームステイを経験します。そのとき目にしたハリウッドに魅せられ、煌びやかな世界に憧れを持ちました。
学生時代には日本文学全集を読破しました。就職活動では地方局のアナウンサーに内定しますが、どうしても自分で作品を作りたいという意志から、内定を辞退します。
リクルートの職業診断でも、向いている職業はテレビディレクターと出ていました。
澤田隆治率いる株式会社東阪企画に、50倍の難関を潜り抜けて入社。当初はアシスタントディレクターとしてのスタートでした。
実は当初、採用者3名からは漏れていました。当時人気の占い師だった泉アツノさんが白蛇占いで「この子の天職はテレビマンだ」と助言し、さらに東大生が辞退したことが重なって、採用が決まります。
澤田隆治からはアナウンサーになった方がいいと諭され、他の学生より面接が一回多くありました。アナウンサー向きだという理由で、不採用の予定だったのです。
報道番組、スポーツ番組、バラエティ番組、情報番組のディレクターとして現場を重ねます。『はなまるマーケット』ほか。
この時期に身についた取材と構成の技術が、のちのPR映像の土台になりました。
1993年11月公開の『高校教師』劇場版でメイキング撮影を担当。翌年には1994年12月公開の『家なき子』劇場版へ。
ここからメイキングとPR映像の領域に入りますが、この時点ではまだ主業務ではなく、報道やバラエティの仕事と並行していました。
ドラマのPR映像を専門とするディレクターへ完全に移行。テレビドラマのPR映像を専門とする職種を、日本で最初に確立しました。
PR映像は当時、関東ローカルの文化でした。1990年代の京都にはPR番組そのものが存在せず、京都の現場に初めて入ったのが池田あきです。照明も当ててもらえない扱いを受けましたが、自作のDVDを現場の一人ひとりに配り歩き、理解を得ていきました。
長男が誕生。生まれてすぐも仕事を続けました。ちょうどそのタイミングでプロデューサー業務に就きますが、プロデューサーよりディレクターの方が楽しいという思いから、ほどなくしてディレクターに復帰します。
子育てをしながら、現場に立ち続けました。
『必殺仕事人』の番宣番組が、関西で視聴率12%を記録しました。1時間尺での数字で、番宣番組が始まって以来の高視聴率です。
『奪い愛、冬』のYouTube企画で、初めてネットメディアでの100万回再生を突破。人気キャラクターを掘り下げる動画企画で、番組本編の視聴率も上がりました。
株式会社浪早リゾートを設立し、和歌山と東京の二拠点生活をスタート。長男とともに、宿泊業と映像制作事業を営んでいます。
現在もドラマのPR映像とメイキング撮影に従事しながら、フジテレビのドキュメンタリー番組で監督を務めています。
